砂漠の街に奇跡の萌芽
ラスベガスからの撤退後も、ヤングはネバダ南部の他地域へ開拓者たちを送っています。
1858年、ラスベガスにおける2年間の辛苦に満ちた開拓努力にもかかわらず撤退を余儀なくされた経験をもとに、今回はよく訓練され組織化されたグループを派遣しました。
現在のネバダの南部にあるパナカという町は、こうして誕生したものです。
ヤングは1864年、コロラド川流域に交通網を作るため、コールビルという町の建設を命じています。
コールビルはラスベガスからわずか50キロほど離れた地点にある町。
さらに彼は、その翌年から立て続けに、コロラド川と合流するバージン川、マディi川の交通網に沿って、セント・トーマス、セント・ジョセブ、そしてオバートン、ウエストポイントという新しい町を次々に築いていきました。
1848年にアメリカ合衆国に編入されたラスベガスは、1850年9月から1863年2月まで、ニュー・メキシコ・テリトリー内に一時的に帰属し、その後アリゾナ・テリトリー誕生とともにアリゾナに属するようになります。
アリゾナ・テリトリーの北西地域は「パイウテ・カウンティ」と呼ばれ、現在のクラーク・カウンティをはじめ、リンカーンとナイ・カウンティも含まれていました。
パイウテ・カウンティはユタ・テリトリーとアリゾナ・テリトリーの両方から統治されていたようなところがありましたが、インディアンからの被害などに理解を示していた両方のテリトリーから、同情的かつ保護的に扱われていました。
また、政治的配慮のもとに、1860年代のなかばには、ラスベガスはアリゾナ・テリトリーの首都候補にあげられたことがあり、もし実現していたら、今のラスベガスの様相はかなり異なっていたかもしれません。
1867年、合衆国連邦政府は、ネバダ地域をアリゾナ・テリトリーから独立したネバダ州として正式に承認します。
しかし、連邦政府は測量によりネバダの行政区域を確認すると、高額な納税義務をモルモン移住者に通達したのです。
この行政判断に怒ったモルモン教徒たちは、大挙してユタ州へと引き上げてしまいました。
これが原因となって、その後十数年にわたって、パイウテ・カウンティ(現ネバダ州南部)の発展は完全に止まってしまったのです。